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地下鉄でいける、ストロベリーピッキング
大阪市内からクルマで約20分。東大阪市の川浦農園をたずねた。代表は川浦慎太郎さん(37歳)。川浦農園の歴史は、資料で溯れるのが3代前までだったとのことで、慎太郎さんは4代目を名乗る。ある日、古くなった納屋を建て替えた時に、土台から石の農機具が出てきた。かなり古い時代の農機具のようで、川浦農園の歴史はもっと長いようにも思われる。
慎太郎さんは、大学時代、アメリカンフットボール部に所属していたスポーツマン。甘くて可愛いイチゴのイメージからはちょっと遠く、一見、強面(コワモテ)で厳(イカ)つい雰囲気の持ち主である(笑)。
そんな慎太郎さんと奥さまが笑顔で出迎えてくれる、川浦農園。12月から5月までがシーズンで、摘みたてイチゴの直売とイチゴ狩りを楽しむことができる。栽培品種は、章姫(あきひめ)と紅ほっぺ。農園内には、英語表記のサインボードがたくさんあるのが目につく。
「なぜかタイ、香港、ベトナム、シンガポールから、たくさん来られているんです。しかも皆さん、マナーがとても良いんです」。食べかけのイチゴやヘタをポイ捨てするような顧客がいたら即刻、慎太郎さんがレッドカードを出す予定であるが、そんな事態はまだないという。
川浦農園では、インバウンド*向けにフェイスブックを活用して、イチゴ狩り情報を英語で発信している。逆に、海外からの問合せメッセージがくることもしばしばある。
検索エンジンで「STRAWBERRY(苺) PICKING(摘む) OSAKA(大阪)」と打ち込むと、大阪府でイチゴ狩りができる農園の一つとして、川浦農園がヒットする。梅田や難波から地下鉄を利用し、30分強でたどりつけるアクセスの良さも人気の理由であろう。
*インバウンドとは、インバウンドツーリストの略。外国からの観光客、訪日外国人旅行者のこと。
土足厳禁、クリーンなイチゴハウス
慎太郎さんの後ろについて、ハウスに入れてもらうと、イチゴの甘い香りがふんわりと漂ってきた。16アールのハウスには約10,000株のイチゴがずらり。大きくて真っ赤なイチゴが、鈴なりでぶらさがっていた。
ビニールハウス内は土足厳禁、専用の室内履きが用意されている。外の土を持ち込まないよう、衛生面への配慮である。ハウスの中の地面には、雑草や病虫害の防除に役立つシートが被せられており、車いすやベビーカーでの移動も容易だ。
パートのスタッフさんたちが、ちょうど葉かき(古い葉をとりのぞく)の作業中だった。高設式(苗の畑を腰高の位置に作る様式)なので中腰やしゃがむ必要がなく、立ったまま作業でき、足腰への負担が少ない。イチゴ狩りに客として来ていた人や近所の友だちが、忙しい時期限定で手伝いにきてくれている。
イチゴの実には一切農薬をかけない、IPM農法
「イチゴの実には一切農薬をかけていないので、摘みとったらそのまま口にいれていただけます」。
川浦農園はIPM農法に取り組む。化学農薬は極力使用せず、大阪エコ農産物の認定も取得している。IPMとは、英語の「Integrated Pest Management(総合的害虫管理)」の頭文字。農家には、病虫害が出る前に予防として、もしくは病虫害が出た後の対策に、殺虫剤や殺菌剤などの化学的防除を行う人がいる。
大阪府が策定している「特別栽培農産物に係る表示ガイドラインの慣行レベル」によれば、一般的な農家が病虫害防除でイチゴに使用する農薬成分回数は35回。しかし、化学物質は使い続けると害虫が抵抗力をもち、自然環境や生態系に悪影響を及ぼすことがある。そこで、物理的な資材や天敵などと組み合わせて化学的防除を減らし、効率よく病虫害を防ごうというのがIPM農法である。
慎太郎さんは、紫外線の出るライトでうどんこ病*を防除し、ハダニなどの対策には天敵飼育資材「バンカーシート」を活用している。
バンカーシートには天敵パック製剤が組み込まれており、製剤の中ではハダニを捕食するミヤコカブリダニやチリカブリダニ、アザミウマを捕食するスワルスキーカブリダニ、アブラムシに寄生するコレマンアブラバチなどが飼育されている。これら天敵が、バンカーシートから順次飛び出すことで、イチゴを長期間、害虫から守る。
そのおかげか、川浦農園では、イチゴの実にいまだかつて化学的防除を行ったことがないという。
*うどん粉病とは、葉に白い斑点が発生する植物病害。植物の生育を妨げる。
突然やってきた、農業継承
川浦家の長男だった、慎太郎さん。将来は自分が農業を継ぐものと、小さい頃から「刷り込まれてきた」という。今でも慎太郎さんには、祖父や父に手をひかれ、田んぼや畑に連れて行ってもらった幼少期の記憶がよみがえることがある。「稲や畑の作物がなびくと、まるで風が見えているような感覚に浸るのが昔から好きでした。僕にとって田んぼや畑は仕事場ですが、安らげる場所でもあるんです」。
大学卒業後は、JAグリーン大阪に勤務。人生の転機は、慎太郎さんが23歳の時おとずれた。父が突然、心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人となってしまったのである。JAを退職し、兼業農家になったのは27歳の時だった。就農後2年間は、祖父や父と同様、大阪シロナやキャベツを栽培し、JAの直売所に出荷していた。
当時、慎太郎さんが抱いていた農業のイメージは、不動産収入を主とし、税金対策に農業を行うという典型的な都市型農業。「片手間で農業をする人が周りにたくさんおられました。農業ってこんなもんなんか、これって農業なんか、と小さい頃からモヤモヤしていたんです」。
そんな折、たまたまJAの情報誌の記事を読んで、東大阪市内に水耕栽培で農業をビジネスとして立派に成り立たせている篤農家がいることを知った。「これだ」。現在に至る、川浦農園の第一歩である。「都市農業でも、もっと農地を使ってできることがあるんじゃないか」。