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原風景が残る、富田林の田んぼ
富田林市嬉(うれし)地区、地名に嬉とつくから「嬉(うれし)さん」と名づけられた米は、特定非営利活動法人 富田林自然農法「根っ子の会」が育てている。会は、今から20年以上前、志を同じくする3人の主婦によって作られた。3人に共通していたのは、「自分も家族も、健康になりたい」という思いだった。
無肥料、無農薬、自家採種で米づくり
「嬉さん」は、無肥料、無農薬、無消毒、自家採種の自然農法によって作られる米だ。田んぼの後ろにそびえているのは、標高296メートルの富田林で一番高い山、金胎寺山(こんたいじさん)。田んぼには、その金胎寺山からの水と石川上流の水を引く。おいしくないわけがない。取材に伺った日はちょうど田植えの真っ最中、点在するどの田んぼにも多くの人が集まっていた。
田んぼに集う老若男女、共感の輪
田植えをしているメンバーは実に多彩。向こうの田んぼでは、スーパーの食農講座の参加者が、こっちの田んぼでは家族連れ、サラリーマンが、まさしく老若男女が勢ぞろいしていた。
その中に交じって、率先して農作業に精を出している少年たちがいた。府立農芸高校の生徒だ。中心にいたのは、会の創立者である博美さんの末っ子、京太郎くんだ。博美さんは4人のお子さんの母でもある。
ヒョウ柄の勝負長靴、気合十分
博美さんは、実にパワフル。歩きながらも、絶えずみんなに満面の笑顔で声をかけている。初対面でも、ずっと前から知り合いだったかのような錯覚に陥る。いや、彼女に会うと、誰もがその魅力とパワーに引き寄せられる、というか、吸い寄せられてしまう。長靴はヒョウ柄、メイクもばっちり、気合が入っている。
「京太郎は、自分の畑を持っているんやで」と博美さんに言われ、驚いた。高校一年生ながら自分が管理している畑を持ち、責任をもって野菜を育てているのだという。しかも、お金を貯めて自分で耕運機を買ったそうだ。なんせ、京太郎くんはお腹の中にいるときから博美さんが作った米や野菜で育ってきたのだ。
「京太郎、あっちで耕運機が立往生しているんやて。見に行って」と、博美さんに言われるやいなや「わかった」と自転車に飛び乗り、すぐさま走り去った京太郎くん。将来は農業の六次化をめざしているという、頼もしい存在だ。
無農薬の野菜を、食べさせたい
元々、兼業農家に育った博美さんだが、農業にはノータッチだった。しかし、どうしても農業をしなければならない、やりたい理由があった。
お子さんがアトピーで、病院に連れていく日々が続いたが、なかなかよくならなかった。そんなとき、自然農法に出会う。無農薬の野菜を食べると免疫力がついて治るかもしれないという話を聞き、勉強を始めた。そして食の勉強会で知り合った同じ健康の悩みを持つ久野陽子さん、森多貞子さんと出会った。後に、一緒に根っこの会を立ち上げることになるメンバーである。
手に入らないなら、母たちで作ろう
1996年当時のことである。インターネットは普及し始めたばかりで野菜や米を簡単にインターネットで買えなかった時代、肝心の無農薬の野菜は容易に、手に入らなかった。「そや、手に入らないのなら作ろう」と3人は、自然農法で農業を始めることにしたのだ。
目指したのは、有機肥料や土壌消毒剤を使わない、種は自家採種というやり方である。農業経験のない3人に、ハードルは高かった。まず、肝心の農地がいる。幸い博美さんの実家は兼業農家だ。博美さんは、父親に頼むことにした。
けれども、父親からは一喝される。「お前にそんなもんできるか、みっともないからやるな」。今まで、農業になんの興味も示したことがなかった博美さんである。本気度が最初はなかなか伝わらなかった。それでもなんとか1.5アールの畑を父から借り、主婦3人で富田林自然農法 根っ子の会はスタートを切った。
3人は子育て、家事に追われながら、大根やサツマイモなどを育て始めた。最初は思うようにいかず、ほとんど収穫できない時もあったという。「くそー、今に見とけ」。ずっとそう思っていたそう。「地域と関わっていくうち、だんだん認めてくれるようになってきたわ」。
あきらめずに農作業を続けていくことで、土壌も整い、収穫も安定してきた。最初は何をはじめるんだと驚いていた地域の人たちも、今では「ようやってる」「頑張ってる」と見守り始めてくれている。「山の枯れ葉は、自然の葉っぱでしょ、土に微生物が増えて栄養のある土になるし、生物の多様性調査をしてもらったら、なんと絶滅危惧種が復活してたんやで」と博美さん。