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能勢町は、大阪府の最北端に位置する。京都府と兵庫県に隣接し、町は一面、里山と田畑。自然豊かで、のどかな土地である。
能勢町には、農業研修生の受け皿になる農家や団体が多い。行政も、10年ほど前から就農希望者の相談や就農後の定着支援に力をいれてきた。20-30歳代の新規就農者がたくさん入植したことで5年前には、能勢青年農業者4Hクラブ*(会員22名、うち女性6名)が復活した。実に、30年ぶりのことである。22名のうち親元就農者は3名、残り19名は地域外からの就農者である。
*4Hクラブとは、農業の改良、改善をめざして活動する青年組織。4Hは腕(Hand)、頭(Head)、心(Heart)、健康(Health)の頭文字。
そんな能勢町に新規就農者の草分けとして、15年前に入植した吉村次郎さん(41歳)をたずねた。
ゼロからのスタート、自分さがしの旅
次郎さんの実家は大阪、農家ではない。大阪工業大学の工学部で応用化学を専攻。農業を志したきっかけをたずねると、飛び出した言葉は「死にたいと思ったから」。
びっくりするではないか、どういうことなのかきいてみた。「自分は何がしたいんやろか。生きるって何やろうって考えたんです」。ふむふむ。
いろいろと思い、悩むなかで、次郎さんは次のように確信したという「人間の根本は、食べ物やろ」。そのとき偶然、手にした本があった。「農業をやろう! とにかくひと言、そんな感じの本やったんです。あれは日本有機農業研究会の本だったかなぁ」。
誰が書いた、どの本だったか。運命の本は、もう手元にない。ただ、有機農家のリストが掲載されていたことだけは鮮明に覚えている。有機農業研修生の受け入れ可能な農家一覧が載っていたのだ。
ご縁の数珠つなぎは、北海道研修のキャンセル
「農家リストを見て、大学の夏休みに農業研修へ行こうと思ったんです」。次郎さんが研修先に選んだのは、北海道だった。もうすぐ出発予定日だという時、訪問先の農家から連絡があった。農場スタッフが怪我をして研修の受け入れができなくなったというのだ。
代わりに、兵庫県で研修生を受け入れている有機農家を紹介してくれた。それがご縁で、次郎さんが初めて研修に行った農家は兵庫県丹波市、大阪のお隣。市島町で有機農業を営む、橋本慎司さんの橋本農園だった。
橋本さんも、出身は農家ではない。1989年に市島町へ入植、新規就農者の大先輩だ。橋本農園では、40種類の有機野菜づくりと400羽の養鶏を学んだ。(学生時代に、次郎さんは洞爺湖や羊蹄山の近くでキャベツやトウモロコシを有機栽培する毛利農園にも研修に行った。この時、北海道行きのリベンジも果たしている)
流通でバイト、原田ふぁーむで研修
橋本さんからはその後、出荷先である流通事業(宅配、通販)の団体を紹介される。「農家になるなら、流通の現場も見ておいたらええ」と大先輩からの配慮だ。
紹介に従い、次郎さんは大学卒業後、有機農業の生産者組織である「ポラン広場有機農業協会(POFA)」事務局で、週2回のアルバイトを体験する。当時のPOFA代表が原田ふぁーむ(http://yaruyan.adrec-sample.com/855)とご縁があり、そのご縁伝いで原田ふぁーむでの研修も掛け持ちした。原田ふぁーむは、大阪を代表するオーガニック農家。
次郎さんは大学時代に有機野菜づくり、養鶏、北海道を体験し、大学後は流通(宅配、通販)、米の有機栽培を学ぶことになる。
独立、新聞配達、研修生へ出戻り
原田ふぁーむでのある日、原田富生(はらだとみお)社長が言った。「いつまでも研修を続けていても仕方ないぞ、独り立ちせぇ」。その一声で、次郎さんは独立。20アールの農地を借りた。年間約40品目、野菜を少量多品目栽培して関西よつ葉連絡会に出荷するようになった。若手農家仲間と一緒に毎週末、大阪市の鶴橋商店街で野菜の直売を始めた。まさに、今でいうマルシェのはしりである。
加えて、新聞配達もした。独立して、少量多品目生産、販売を一人でこなし、新聞配達。早朝から夜遅くまで、フル回転のライフスタイルに体も悲鳴をあげた。「これはいかん、と自分でも思いました(苦笑)」と、次郎さん。
そんな時、原田ふぁーむから緊急招集。「独立して、バイトに頼るなら、戻って来い。うちで働け」と。「また、研修生です。独立して出戻ったのは、僕くらいかもしれません」と、はにかむ次郎さん。